日本史は面白い

日本史に久しぶりに興味を

日本史の年表をしばらくぶりに眺めて楽しんでいます。子供達のどちらかが中学校で使ったものなので、結構古い。現代では少し違う点もあるかもしれない。それでも結構。

 NHKの大河ドラマ「平清盛」の時代背景はどうかな? いえ、その前の日本史の始まりは? 資料年表では、旧石器文化はBC20万年頃。そして日本列島が大陸から離れたのがBC1万年頃。 その頃から縄文時代が始まり、BC300年頃には水田耕作。そして弥生文化が始まるわけです。

 ボランティアでホストファミリーをしていた頃には、弥生博物館へ外国の方々を案内したものです。何十回行ったか覚えてないくらい。我が家の初代ワンコの紀州犬ラウラに似た弥生犬の像が、遺跡模型と一緒に展示されていました。

 この資料年表では、日本の歴史と世界の動きを平行して載せているので、興味深い。日本の縄文時代に、四大文明が起こっているのですねえ。(BC3000年頃にはメソポタミア・エジプト文明。その500年後にインダス文明・中国文明)

 弥生文化が始まった頃、アレクサンダー大王がアジア遠征を始めたり。その百数年後に秦の始皇帝が中国統一。へえ~。そして、最近日本人観光客が遭難したという悲しいニュースが伝わる、万里の長城が出来ました。

 卑弥呼が邪馬台国の女王となったのは、AD189年。新約聖書ができた頃。

 大和国家の全国統一が進む頃、ヨーロッパではゲルマン民族大移動が始まる。(375年)

 聖徳太子が大阪に四天王寺を建てたのが593年。隋の中国統一は589年。ほとんど同じ頃。仏教が日本に到来したのは552年。飛鳥文化の時代ですねえ。 

 私の行った大学が奈良県にあったので、何度か遊びに行きました。クラブで行ったり、そういえば家人も同じクラブ員だったので、デイトに行ったみたいなもの。 あの頃は、小さな丘しかないように思えて、なんだかおとぎの国みたいな不思議な地域に思えました。

 そして時代は移り、710年奈良時代となる。 711年には、イベリア半島(スペインの辺り)をイスラム軍が征服。

 794年、京都に都を移し、平安時代へ。最澄が天台宗を、空海が真言宗を開く頃、世界では、フランク王国チャールズ大帝が西ローマ皇帝となる。

 荘園が各地に広がり武士が起こり頃、中国では唐が滅び、分裂の時代に。

 平氏全盛(1167年太政大臣になる)の頃は、ヨーロッパではゴシック建築が盛んで、北イタリアの諸都市が発達。

 さて、こんな感じで時代が次々と変わっていった状況なのですが、その時代時代の特徴は明日またちょっと調べてみることにします。時間があると良いのですが。

 

 

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日本史は結構面白い5

中学高校と近代歴史をあまり熱心に学習した覚えのない私としては、近代史って?という感じです。古代から歴史学習を始めず、現代から逆進して教えてもらえれば良かったのに。

 今回は、アメリカがどうして日本に対して居丈高に脅すのか、についての話。

日本人というのは下手に出て物を頼んでもだめだ。丁寧にものを頼んでも駄目だ。居丈高に脅かすのが一番効果があるが、あまり脅すと真珠湾のようなことをするから気をつけろ。」とアメリカの外交教科書に書いてあるが如し。

 さて、それはなぜか。

 話は黒船到来のずっと以前に戻ります。アメリカは当時、捕鯨国で補給基地として日本が必要でしたから、外交ルールとしてまずはソフトムードで日本に近づき、日本人漂流者を助けたよと「お土産」として交渉しようと江戸に近づきました。ところが江戸幕府は鎖国中のことですから、漂流民の帰国を拒否。 モリソン号という商船を砲撃して追い返します。

 それでもアメリカは補給基地が必要なので、2度目の使者を送ります。黒船到来の7年前、ペリーの前任者の紳士が、国書を持参してお願いしに来たのです。ところがこれも追い返してしまう。

 三度目の到来になるペリーは、いきなり江戸幕府を脅しつけ、あっさりと開国させてしまったということ。これで最初に書いたようなルールができあがったのかも。

 昭和16年に、日本が清水の舞台から飛び降りる覚悟でアメリカに宣戦布告したのは、なぜかといえば、日本が延々と日清・日露戦争以来築き上げた中国の利権を、全て手放せとアメリカが言ってきたから。それは東京裁判の際に、インドのパール判事が、「こんなことを言われたら、誰だって怒るだろう」といっていたほど強引だった。

 punchこういうやり方をアメリカがしたのは、それまでのアメリカ外交の流れからして、日本に対して下手に出た時には失敗し、強行な態度を取ったときは、上手くいっているから。 幕末のアメリカに対する日本の対応が、アメリカ人の頭の中にあり、それが日本に対する強硬な態度を生み、それが真珠湾、太平洋戦争へと繋がっているのかもしれない。 

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日本史は結構面白い4

<近代>の続き
 攘夷にもいろいろ

 攘夷というのは外国からの武力干渉あるいは内政干渉、侵略等を排除して、日本の独立を保つ」ということ。具体的は方法としては、最初は外国人を切り殺せばみんな恐れをなして帰って行くだろうという考えが主流。これはテロ。bomb
 それに対して、外国は文明が進んでいるので太刀打ちできないのだから、敵に学ぶという姿勢が大切。開国して交流し、貿易をして国を富ませ、その力で兵を強くし、軍艦など最新兵器を持って国の独立を保つことができると考えたのが、勝海舟。
 最初は、テロをしようと企てていた人達から「外国かぶれ」「スパイ」とののしられ、切り殺されたりもした。坂本竜馬が勝海舟に会いに行ったのは、勝を切り殺そうと思ったから。ところが日本の現実を冷静にさとされ、逆に勝に説得されてしまい、後に勝海舟は日本海軍創設の父となったのです。

 結局、テロ方式に固執した者達は、実際に外国と戦って負け、黒船襲来から10年経ってからやっと、富国強兵論へと考えを変えざるをえなくなった。

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日本史は結構面白い3

日本史講座メモパート3

江戸時代の身分制度を崩壊させた思想とは?

 身分社会であった江戸時代、100人寄れば1位から100位まで順位がつけられるという社会でした。例えば、御三家といっても格の違いあり、同格の大名でも「長幼の序」つまりどちらが年長者か、武士であっても旗本か御家人か。「士農工商」のそれぞれの階級がさらに細分化されていたわけです。
 しかし外国にはそうした身分制度がない、ということを知った人達(勝海舟等)がいて、天皇という至高の存在の前では将軍であろうと百姓であろうと、家来ということでは平等と言う考え方が出てきた。 「一君万民主義」 

 この考え方が最終的に確立されるのが「版籍奉還」。これは土地の主君である大名が自分の領土と人民(家来を含め)を天皇にお返しするということ。
 具体的には、例えば薩摩藩の殿様も家来の西郷隆盛も身分の上下なく、等しく天皇の家来になるということ。このように幕末に生まれた一君万民主義が、明治の版籍奉還にまで繋がっている。
 民主主義の基本は平等で、それを達成するやり方には、キリスト教の神の名の下に王の権限を制限して平等を実現させるという方法。日本では天皇がその代わりになり、天皇の前での平等性を確保し、日本は近代国家になったのです。

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日本史は結構面白い2

引き続き日本史講座のメモ。

近代について語る時には、日本が世界の中に取り込まれたということになります。
 日本の歴史上大事件は3つ。その一つがship黒船(軍艦)の出現。
 3大事件とは、鎌倉幕府の成立。これは日本を支配していた朝廷・公家が、武士に取って変られたので大事件。
 もう一つは、明治維新。日本の政権担当が武家から天皇中心へ、そして近代国家へ。

 では、なぜ黒船来航がそれほど大事件なのか? 黒船以前、世界最強部隊とは騎馬部隊でしたから、馬を船で移動させるのは非常に困難だったので、日本は四方を海に囲まれているという利点から、外国から攻めらことのない、政界一安全な国家だったのです。
 ところが黒船は、巨大な大砲を積める上、人員もたくさん積める「動く砲台」だったために、逆に海に囲まれている日本は、どこからでも攻め込まれる可能性のある世界一危うい国へ。
 そして黒船来航の翌年、あたふたと徳川幕府は開国してしまいます。それには天皇の許可を得ていませんでした。このことが大変な結果となります。家康が幕府を開いた時に、朱子学(天皇を尊ぶ思想。天皇から政治を委任された将軍の権威づけに利用)を導入し、それが幕末の頃には、天皇を尊敬すべしという国論へ。なのに、天皇の許可を得ずに開国とは何事か、ということに。徳川幕府安泰のために導入した哲学が、結局は自分達の首を絞めることになるという皮肉。

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日本史は結構面白い1

図書館でしばらくぶりに、面白い本を発見。江戸川乱歩賞受賞作家の書いた本で、名前は結構いかめしく開くまでに時間が・・・でも開けてみるとこれが面白い内容。大学受験時に世界史を選択したために、日本史はまるで記憶に残っていないのです。(中学レベルのまま)

 少しだけメモしておきましょう。

 内容は簡単明快。「学校の教科書では歴史の本当の姿はわからないけれど、実はこうだったんだよ」と易しいことばで説明してくれています。

 まず、借りた本の最初は、戦国時代と江戸時代の厳しすぎる法律を2つ取り上げて、それはなぜ実施されたのか、その効果はどうだったのかを説明。

 これは、信長・秀吉・家康は日本をどう変えたのかという話から抜粋。

①織田信長の「一銭切り」。たとえ一銭でも他人の物を盗んだら、切り捨てる(死刑)という厳しい法律。この時代には警察は無く、弱肉強食でやりたい放題ですから、治安確立のためには厳罰にする必要があった。この施行によって信長の領内は治安が劇的に良くなり、人気を得た。

②徳川綱吉の「生類哀れみの令」が出された理由。

江戸初期の最大の課題は、「平和を確立すること」。今まで闘うことを職業にしていた人達の意識を変える必要。つまり、敵を殺してその国を取ることによって出世する時代から、人を殺してはいけない平和の世へ。武断主義(逆らう奴は殺す)から文治主義(法律による支配)へと転換。

 三代将軍家光の頃までは、戦争がなくなったせいで鬱憤のたまった者達の喧嘩が多かったとか。人の気質とはそうそう簡単に変化するものではない、ということで、「生類憐みの令」という極端な法律が実施されたのです。(たとえ、虫一匹殺しても許されない。)常識を劇的に変えるには劇薬が必要だというわけです。

 この話にはまだ続きがあります。「生類憐みの令」には、「病んだ馬は捨ててはならない」という項目があるそうです。ということは、戦国時代は効率第一主義ですから、病んだ馬を看病などしている優しさはなかったということ。

 さらに、「宿で旅人が病人になった場合、それを追い出してはいけない」という項目も。江戸時代の中ごろには、この令のおかげで病人を追い出す宿はなくなったそうです。

 悪い内容だけ言い伝えられ、良い内容は忘れられるとか。その例を少し挙げています。

信長で言えば、寺社勢力の武装解除というすばらしい業績、あるいは政教分離という業績。

綱吉で言えば、本当の意味での平和主義への転換。

 戦国時代は、警察がないため、みんなが武器を持ち、「自力救済」「自力解決」しか手段のない時代。それを最初に秀吉が武装解除(刀刈り)という形で終らせ、人を殺してはいけないという意識に劇的に変えたのが綱吉。その意味で、信長と綱吉も繋がっている。歴史というのは、点と点の繋がりだ。結果が原因となりまた次の結果を生む、その繰り返しで続いているのが歴史。

 パート2で、近代をメモしてみましょう。

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