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母の随筆

師恩

 いかなる難関も突破し、我が俳誌、松苗誌が発行される運びとなった頃、などと言うのはおこがましい事で、私がそんな事情など知る由もない。

 その知る筈もない昭和二十一年のその頃は、私は洋裁学校に通っていた。二十年の春、即ち終戦の年に、五年制で入学した女学校が四年制に変更になったその年に運良く卒業し、本科、研究科と続けて洋裁学校へ通っていたのであった。

 すでに三年生の頃には、学校の裁縫室を二つ打ち抜いてお国の為に、ジャングル用の兵隊の迷彩服を縫っていたのであって、その仕事を好きだと思ったことはなかったものの、何となくその勤労奉仕も無駄ではなかったような気がしていた。 

 その洋裁学校は、かちどき橋の近くにあって、佐古の町からは歩いて四十五分位の所であった。私の住居は現在は四番町になっているがその頃は八丁目であって、九丁目から西に家のある人はバス通学の許可が貰えたのであったから、一丁違いで私は女学校の四年間も、片道四十分ばかりを歩いて通学したものであった。

 私の家も、その洋裁学校も、幸い焼け残っていたのであったが通学の道沿いは全て空襲で焼け野が原、ぽつんぽつんとバラックが建っている時代であった。

 その通学路のなかばあたりに、◯◯兄弟自転車店と看板を出している家があり、覗くと何時も二人の青年が仕事に励んでいた。毎日の往復に私は、その自転車店の前を通るのだが今思い出してみても兄弟の顔が浮かんでこない。ひょっとすると顔を見たことはなかったのかもしれなかった。

 それ程いつも仕事に熱中していた二人であったのかもしれなかった。

 兄弟店というからには兄と弟であるに違いなく、こんな時代に、自転車に打ち込めばさぞ儲かるだろうなあ、と思っては覗き、弟の方を私の、婿養子に欲しいわなあと思いつつ覗いていたにもかかわらず振り向いてもくれなかったものであるらしい。

 その場でばったり、失神したふりでもしておれば駆け寄ってくれたかもしれなかったのにと今ごろになって思ってみる。

 そんな時代から丁度二十年、昭和四十一年の秋、ご縁があって、まったく縁としか言いようがないのだろう松苗社のお世話になることになり、以来まるまる三十年、感慨無量なものがある。

 徳島市の文化講座の、中央公民館での講師先生が先生であって、その受講生三十余名の中から故、三石恵子さん、現在は松山市においでの福永時子さんとの三人で初めて万福寺の句会へ顔を出したのは、先輩諸氏も現在より確かに三十才お若く、思えば松苗も二十才の青春時代であったわけである。

 私は、迷彩服を縫ったあと、遂に学徒動員で学校を出ることになり、県外にこそ行かなかったものの、徳島市内の軍需工場で仕事をするようになって、言って見れば軍国少女であったから、文学少女であったなどと思ったことは一度もない。それなのに気がつけば何故かサトーハチローの木曜手帳に『詩』を書き送ったり、松苗社へも紛れ込んでいたのであった。

 「木曜手帖」は、サトーハチローを筆頭に、その門下生の作品と全国からの投稿の中の入選者の詩が載っている月刊誌であって、投稿した作品が添削して貰えて返ってくるような事は決してない。その頃、徳島市の新浜町に居られた福永時子さんのお宅へお伺いした折の感激を書き送ったものが木曜手帖に掲載されたり、県民文芸の現代詩で、竹中都選の佳作に入ったりしたので、若い女性の声の電話で「一緒に現代詩をしてみませんか?」というようなお誘いを受けたこともあったりしたが、「私、四十才になりますのよ」と返事をすると、それでもよろしいではありませんかとは言ってくれなかった。

 体験というものはおそろしいもので、私は人間が人間を教育する事の難しさを嫌と言う程承知しているつもりであった。最後の血の一滴までお国に捧げよう、などと担任の先生が言うので本当かと思っていた。学徒動員に駆り出された工場の広場で、今は城南高校であるその頃の徳中、それも同じ学徒動員で来ていた男子が昼の休みに草野球をしているのをぼんやり見ていたら、学年主任の先生が顔を真っ赤にして怒るので、しかられるべき悪事をしでかしたものと思っていた。

 だから人間、生まれたままで良いのではないかと思ったりして一姫・二太郎・三太郎であるところの我が子三人にも何も言って聞かせたりはしなかったような気がしている。言って聞かせるべきものがわが身についているとも思えなかった事もある。 もしも、そのようなことで、そういう我々の年代が育てた子供たちの中からオウム教が生まれたのだとすれば残念なことである。その三太郎が小学校にあがった頃、洋裁の仕事を止めたので何処からか空気が漏れ始めたのに違いない。

 歌梯先生が「若い人は、子供を連れて来なさい。そうすればご主人も安心して出してくれるから…」などと言ってくださったので、その三太郎を連れて、一泊の相生月見句会に参加させていただいた事がある。そして子供を宿に残したまま、先生について歩いていると、

「子供のところに居てやらんか!」とお叱りを頂戴した。その子供の方でも、「二度とついてこん…」と言ったのではあったが今では二人の男の子の親になり、それなりに人間修業にいそしんでいるに違いない。生まれたまんまにこだわって育てた子であったから、さぞかし世間様にはこつき回されているかも知れないが、何とかやってゆくだろう。

 テレビで、たしか曾野綾子ではなかったか、

「聖書の中には、いろいろの事が書かれているが、つまりは、結局は、神と己、の関係なのですよね」と、言うような事を言っておられるのを聞いたことがあったが、聖書を読まぬ私にもいくらか合点のいく内容であった気がしている。

 古きを知り、先輩の知識を学び、その上に新しいものを積み重ねてゆくのが人間の英知というものであるとすれば、とてもとても、我が師にも先輩にも申し訳無い事で、まだまだその足元にも及ばない。しかしながら、三十年、投げ出されもせずにくっ付いて来られたのは、深い恩恵を頂いたものである事に相違はない。

 いつの日にか、誰に申すでは無し、月に申すのよ、の心境に到り、神と己、ひいては己に思い到った時、歌梯先生のおっしゃる、「俳句は宗教」の理解が叶うかもしれないのである。

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