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母の随筆「舟遊び」

一応、母の書いたものを冊子にまとめたものは今回で終了です。まだ、たくさんあるはずですが、入力するのは時間がかかります。つたない文章を長らくご覧頂いて有難うございました。

   舟遊び

 わたしの住んでいる所から、という名の橋を渡ると、すぐに新町川に沿って阿波藩のがある。さして広くはないが、その宮古橋の辺りで新町川は二つに分岐、片方は田宮川となっているので新町川と田宮川にはさまれて、橋がなければ島のような場所に、煙硝蔵はあったものに違いない。その上に、市内地図をひろげてみると、宮古橋からかなり離れた田宮川に煙硝蔵橋と言う橋があるので、物が物であるだけに広大な敷地の中に煙硝蔵はあったものなのだろうとも思えてくる。

 いや、そう言う事は私にとって何の関りもないことであったが、最近は水の町徳島を売りだし中で、『ひょっこりひょうたん島めぐり』と言う舟が出ているらしいので、私の子供の頃の舟遊びをつい思い出してしまった。その、ひょっこりひょうたん島めぐりは新町川を出発し、どちらへ、どうめぐっているのだろうかと思ってみるが、子供の頃の私の場合は、新町川樋門を経て吉野川へ出るのであった。

 朝突然、父が母に何か言ったかなと思うと「あいよ」とばかり母は朝炊いたに、刻んだ沢庵や梅干を放り込むと大きな風呂敷でそれを包むが、母の舟遊びの支度はそれで完了。あとは潮水で手を洗い、握り飯にして一家四人でほおばるばかりであった。

 家から少し歩くと宮古橋はあって、現在も史蹟標示の目に付く煙硝蔵跡があって、その並びに貸し舟屋が何軒かあった。そこで舟を借り、私と一つ違いの妹と合わせて一家四人の舟遊びがはじまる。舟は新町川から、吉野川に出る樋門をくぐって行くが、樋門は大砲の筒の中のような感じであった。そこを潜る時、我々は砲身を通過する弾丸の様に天井をめがけて「ウワー!」と叫ぶ。空気が張りつめたトンネルの内部は一家の雄叫びにこたえ、グワン、グワンとすさまじく反響を繰り返す。ぐるりがしあうのであった。

 舟は手漕ぎの小舟であったが父は上手にそれを操った。父は漁師の子供ではなかったが、鳴門の北灘の粟田の生まれであったので、まだ国道十一号線もなく山を越えるか、舟で海に出るかの時代でもあって、子供の頃から舟を漕ぐのは達者であったらしかった。どの家にも船があったのかもしれないが、粟田の葛城神社の玉垣には男兄弟三人の名前がそれぞれにあって、日本海海戦一等機関士とまで彫り込んで名前のあるのは父の伯父であり、一族の名誉であったのだろう。

 やがて父の漕ぐ舟は、吉野川河口の中の洲で棹をさし、母や私は蛤・うすがい等をどっさり掘り、父はのんびり釣り糸を垂らす。

 小さい河豚が、水の中の私の両足にぶつかって『ぷうっ』とふくらみ白い腹を見せて浮き上がってきたりした事もあったが、足の裏で砂をこぐと、大きな貝が一度に二つも三つも足に触れる、あの感触は今もって忘れ難い。

 川の流れは清らかで、底の砂地も透けて見え、舟を漕いでいる行き帰りには子供の手にも触れんばかり「せいご」の群れなどが舟についてくる事もあり、それ!網を早う、とうろたえたり、岸辺の葦の根元にはわがものがおの手長がいて、それを見つけると一とき舟をとめ珠網でそれを追ったり、思えば質素で豊かな川遊びであったが、それは戦争も序の口の頃までのことであった。やがて貸し船屋は廃業し、現在はその面影さえも見当たらない。

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