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母の随筆 「西山」

 白いヨークの切り替えに明るいブルーのドレス。それを着た自分の姿が見えよう筈はないのにそれが目に浮かぶのはどうしたことなのだろう。思い出というものは、そんな夢のようなものであるのかもしれない。

 だが、もしかするとそれは、お揃いのドレスを着た一つ違いの妹がそばに居たせいであるかも知れないが、私は、自転車を押した父と、それから母も一緒に讃岐の十一師団に近い道を歩いていた。

 それは私の数え年の八才の時のことで、小学校二年生の夏休みであった。母が早々と病気さえしなければおそらくそこに住みついたであろう讃岐の地にはじめて着いた日であった。

 父の用意してあった家は粗末ながらも黒板塀のある家で、濡れ縁と、その板塀との間のちいさい庭に、子供心にもいかにもふつりあいな馴染めそうにない大木の銀杏があった。もちろん銀杏の方でも我々にいささかの親愛の情をも示す気配は無かったが、他に無花果が二本あって、私にも登れそうな枝振であった。

 そしてこの無花果の実はどういう訳か今もって忘れ難いほど実に美味しいものであった。

 その家は八十八ヵ所のお札所でもあるところの善通寺と僅かに五十米ばかり離れた所にあった。 

門前町

がT字になっていて、その横一文字の町筋の中の「へんろ宿」の横を曲がりこむと向い合って家が二軒あり、その左側の黒板塀の方が私達の家であり、右側の立派な方が十一師団の、多分、部隊長だと母の言っていた職業軍人で正木さんという一家が住んでいた。正木さんの屋敷のはずれには、毎朝兵隊が迎えにきて部隊長の乗って行く馬の小屋があって、そのかたわらに夾竹桃が咲いていたが其処からは道が細くなり畑の中をうねったり、小さい流れに板を渡してあったりしながら西山に続いていた。

 西山は徳島の眉山よりも低く、なだらかで、なお優しい姿の山であった。

 私達一家は初めの日はへんろ宿で過ごした。荷物が徳島からまだつかないせいであったのだろう。私は、宿の廊下を一人、あっちこっちと歩きまわって一通り泊り客を偵察したが中に風変わりな母娘のいるのを発見した。

 上品な装いの母娘連れであったが娘さんは十九の厄年だと後で聞かされた。覗くと、娘さんは横になっていて、片手を手枕にし、もう一方の手で自分の唄っている歌の拍子をとるように、ぴたぴたとお尻のあたりを叩いていた。唄の文句は、

   かんのんじのぼうさんが

   くすのきーのまさつらで

   きつねつきではござんせん

   ゆるしーてーちょうだいな

 と、いう様なものであった。娘さんには狐がついていて、観音寺でしばらく居たあと、この善通寺さんに来たのであるらしい。

 善通寺の門前には、鳩と亀がたくさんいて、特に亀は多く、重なり合い転びあい餌にもらう麩を奪い合っていた。《そう思って最近行って見るとすっかり違っていてその頃の跡形も無いのだが》

 へんろ宿と私の家との間には少し空き地がありその奥に井戸があり、井戸のすぐ向こうの家には酒乱の母親と女の子が二人で住んでいた。女の子が呼びに行くと巡査が来て、酔って暴れている母親を家の真中の柱に縛っていったりした。

 その家の横の狭いどぶ板を踏んで行くと、善通寺さんの横の細い道に出て、玉垣を乗り越えると境内であった。

 何故か私の家には、「吉田さん」と「忠やん」と呼ぶ二人の男が居るようになったが、吉田さんは独身で、忠やんには徳島に妻子がいた。吉田さんは庭の無花果をよく荒し、殆ど食べてしまったが、それだけでは足りず、他家のものまで盗んでいて、左手を首からつるすはめになってしまった。 

 その吉田さんがいつか、私を連れて西山のへ行ったことがある。日が暮れると、西山の裏側に灯が固まって点り、それが遊郭というところの灯であった。だが吉田さんが行ったのは昼間であった。外に縁台が置いてあって、そこに腰を掛けて待っていると、芝居の掛け小屋のような暖簾の奥からかわるがわる女の人が覗いたり出て来りして、飴玉をくれたりした。

 来る特は西山の裾を行ったけれど帰りは

門前町

の方へ廻って帰った。吉田さんが、「小遣い持っとんか」と聞くので二銭出して見せると、「アイスキャンデー買うて」と言った。

 善通寺の本堂の、修理工事が始まったのは私が行って間もない頃であった。宮大工が入ってその高い床板のところどころを捲り始めたのであった。そしてお向いの正木さんの所には私と同い年の男の子がいたが、その子の友達の男の子達にまじり、宮大工の目をぬすんでは床下にもぐり込むのが日課となった。

 床下は高く広く、子供達が走り回っても平気であった。何よりもひんやりとしていて気持ちが良かった。顔に蜘蛛の巣がひっかかったがそれも最初のうちだけで、頭上のどこかで鈍い、仕事をする音が聞こえはするが、大人達の目からは完全に隔離された秘密の岩窟のような遊び場であった。

 足元の土は、いわゆる讃岐の真佐土であってさらさらと小気味よく、よく乾燥していたがそのうち誰かが、その土の中から一文銭を拾い上げたのであった。

 我々はそれがおのおこぼれである事にすぐ気がついた。そうと気が付くとまだまだあるに違いないと、蜆を掘る様に掘り始めた。

 拾ったものは一文銭が多かったが中にはぞっとするほど大きい、懐中時計ほどの丸さの五十銭銀貨もあった。小さくて可愛らしい見たこともない銀貨もあった。錆びて厚みが二倍になっているかと思うようなのも拾って帰った。

 親達もびっくりしながらも、拾ってきたものを酢につけたりして、元のところへ戻してこいとは言わなかった。

 今持っておれば古銭ブームとかで一財産あったかもしれないが、悪銭身につかずで何処へどうなって行ったものやら、管理者が私でなかったもので解らないが、ただ、戦争中も知人とか近所に不幸があると一文銭を六枚、すなわち三途の川の渡り賃の六文をうちに貰いに来ていたので、お寺で拾った一文銭は、めぐりめぐってまた元の仏様のところへ帰って行ったかも知れぬ。

 小学校は、近い所にもあった様であったが、正木さんのすすめで、正木さんの男の子が通っている学校へ転入した。丁度、西山の反対側にある学校で、西山の表の裾道をぐるっとまわって通学したが、一学年が一学級で、今まで考えてみたこともない小さい家族的な学校だった。運動会なども一年から六年生まで一緒に走るので六年生が早いにきまっているではないかと、いささか足に自信のあった私には不満なことであった。

 背より高い黍畑の間の径はいつも小走りで走り抜け、背中のランドセルの中身が音を立てるのを頼りにしたが、真っ赤に烏瓜がぶら下がる山には鬼婆が住んでいて日が暮れるとこどもをって行くと学校で噂をしていたが、その西山の何処からか降りてくる男の子が私達のクラスに居た。

 朝、山の中から校庭に下りて来たり、それが朝と限らないで、昼に近い時もあったりする。

素足の時もあったし、着ている着物の紐がちぎれたままで前がひらひらして、腹も臍もまる見えであったり、お弁当を持ってこなかったり、時に真っ白い半袖シャツを着て来たりで、何とも理解し難い男の子であった。

 そのくせ可愛い顔をしているので、先生がその子に何も言わない事を不思議だと思ったりしたことは無かったが、私は、鬼婆とその男の子の事が何時も気にかかって仕方がなかった。

 そして、その男の子に、同情とも初恋ともつかぬ淡い感情の芽生えそうになった頃、母が病気ばかりするからと、父一人を残してまた元の徳島へ帰ってきたのであった。

 昭和十一年のことである。 

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