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あいまいもこと2

徳島の母の昔話から掲載致します。

      あいまいもこと ニ

 

 カフェーゴンドラ、すなわち「いとえさん」の所へ、私は何度行ったか解らないほどであった。小学校の六年生にもなると一人でも行くようになっていた。

 「どろぼう!」

 「嘘だっせー」

 そんな声で真夜中に目が覚める。この界隈は暁方の四時頃まで人通りは絶え間がない。中の、三百軒の遊郭から朝帰りする人達も多いのである。勿論、切った、はったの事件も珍しくもない場所の様であった。

 階下の、カフェーの店での人声は何故か二階で寝ているとよく聞こえる。通りで起こった泥棒事件は、「とうとうつかまらずじまいや」と言っているのが聞こえてきた。

 私は、祖母が遊んではいけないといった隣の女の子と密かに会った。そして、「明日から必ず大阪弁になってみせる」などと約束したりしたが、どうしてもそれは果たせなかった。「あんた、きんのう、言うてたやないか」と、ねちっと責められてもどうにもならなかった。

 店に、―別れともない別れして、その寂しさが身にしみて、えにしはたぐる糸車、止めて止まらぬ恋心― そんな文句のレコードがあって、私はその曲がすっかり好きになり、やがて、昼も夜も蓄音機を独占し、女給さんがほかのものと掛け替えないように、蓄音機のそばへ椅子をもって行って座り込み、そればっかり掛けるので、女給さん達があらわに嫌な顔をした事もあった。

 いとえさんには男の子が一人、女の子が四人の子供があったがその子育ては殆ど祖母がしていた様であった。

 そして、祖母はその事で愚痴を言ったりはしなかった。そればっかりは私には、「お前達とは違うのだぞ」と、言わぬばかりの気迫が感じられるほど、内孫をひたすら愛していたのだった。

 その分、いとえさんは何時までも綺麗で気前が良かった。

 「あてら、泉の水とおんなじや。汲んだかてちっとも減らへん、けど汲まんかて溢れもしいへんねや」と、言うのがいとえさんの口癖であって、丁度、手頃な私を連れてそのあたりの、「喫茶店めぐりしようか」等と出掛けたり、服や革靴を新調してくれたりした。

 だが、やがてその革靴も裏取引となり、いとえさんは私の靴の前金に、百円札を手渡すようになり、ゴンドラの店は、白鳥と名前が変わり、カフェから食堂に変身する事になっていった。戦争のせいであった。そして、その頃の百円はサラリーマンの一ヶ月の給料ほどであったのかもしれない。

 白鳥となった店は、一日に二回、定められた数の雑炊を売るのであるが、店の前から横へかけて何時も行列が出来ていた。

 時間になると店を開けるが、店の中に椅子はなく、細長い机が筋になっていて皆立ってすし詰めで食べ、食べ終わると裏口から出るといった按配であった。

 店の床下は防空濠であった。丁度、大阪にはじめて空襲警報の出た折に居合わせて、私もその中に入った事があり、蓋をしてその上に叔父が商売用の机を積み上げてくれたのを覚えている。もし、本当に家が焼けていたらどうなっていたか解らないが、後に、本当の空襲のあった時、ほんの少しぽつんと焼け残った中に、いとえさんの家はあって、ずっと今でも戦前のままの家が残っている。三百軒の遊郭もほどんど全滅し、飛田大門の辺りにあった叔父の勤めた「ひしたけ」も焼けてしまったにもかかわらず…

 戦後になって、私は、いとえさんが再び水商売を始めるだろうと思ったので、どうしてもその手伝いがしたいと思った。

 汲んでも汲んでも減らへん泉が私にも欲しいと思ったのであった。幸か不幸か日本は戦に負け、国民は全て裸のスタート線上にあるような気持ちがその頃の私の中にあった。

 それで、買いにくい切符を買って汽車で大阪へ行くことにしたが、佐古駅のプラットホームに立った時には足がわなわなと震えたものであった。まだ海には魚雷が浮いているかもしれないという世の中であった。

 そして、岡山駅で乗り換えの時、闇屋と称する大荷物の男達や、復員途中の兵隊達の背の荷に押し出されせり出され、あとまわしにされっぱなしで、私は自分の非力さを嫌と言う程思い知らされたのであった。

 そして、いとえさんの店も、叔父の「すし屋」に変身し、二度とカフェゴンドラの店は開かれなかったのであって、私の夢も泉のこともはかなく消えてしまったのであった。


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